この前こんな記事を読んだ。おれのブログはゲームコミュニティの外からも読まれているから、外部の人にも日本のゲーマーの価値感をシェアした上で、これに対するおれの考えを話そうと思う。
このブログを要約するとこうだ。
- ゲームが強いやつは偉い
- 理由1: ゲームと真摯に向き合った証だからだ
- 理由2: 偉くないならばゲームをがんばる理由を失うから
- 偉いやつがクソだとコミュニティ自体の品位を疑われるから、偉いやつはちゃんとしよう
これに対しておれの考えを先にまとめると、
- ゲームが強いからと言って偉くはない
- ゲームが強いと尊敬を集める可能性は高まり、その結果、力を持つ可能性が高くなる
- 力を持った人間がクソだとだめなのは単なる一般論
である。
このゲームが強いと偉い偉くない論争は長く続けられているらしく(以下ツイートのLIKE数からも相当関心を持たれていることがわかる)、
それなりに過去に遡って目を通したが、なかなか決着がつかないため、そろそろおれが結論を出す時期かなと思った。
結論
論理を構成する時、「どこまで言えるか」の境界をはっきりすることはとても大切である。そうしない場合を論理の飛躍と言う。
このブログの例でいうと、人がゲームをがんばる理由は偉くなりたいからだけではないことは明らかである。これは人が働く理由に照らし合わせもわかるし、ただ楽しいからでももちろん良い。そもそも、人がコミュニティに影響力を持つためにその人に対して「偉い」という言葉で形容する必要がない。最低限の表現はそのまま「影響力がある」である。(これは上のツイートでいう「ゲーム強い」というのは「ゲームがうまい」というだけであるというのと同じ。それ以上は何も言えないというスタンス)あるいは発言力があるでも良い。対偶をとって偉くないなら強くないを考えることでも、誤りが明確になる。ここまでいえばわかると思うが、強さと偉さには直接的な関係はない。
ぎりぎり言えるラインはどこかというと、強い人は他人からも注目されやすいし、その結果たくさんの人にリーチすることが出来て、影響力を持ち「やすくなる」とは言えると思う。しかしこれも所詮は確率の問題で、強いのに影響力が一切ない人もいるし、弱いのに影響力が大きい人もいる。後者は例えば配信者で、たくさんの視聴者、経済的なインパクトがあれば、影響力を持つことが出来る。例としてShroudよりPUBGで強いプレイヤーはたくさんいるが、彼らよりShroudの方が影響力が大きい。
このように、ゲームが強くても偉くないことは明らかなのだが、では一体なぜこの議論が続けられているのだろうか。
第一にゲームコミュニティの語彙力のなさが理由だと考えている。ゲームにおいては強いとか弱いとか、3文字の言葉に圧縮して会話することが自然に行われている。アラレちゃんの少しヌケた性格を表現するために使われる技法(例:「それ、つおいの?」)、おれはこれを「バカ3文字の法則」と呼んでいる。偉いというのも、この一例であると考えられる。
第二に、強ければ偉いが成立しなければ困ってしまう人がいるからである。これは、それしかやってこなかった人とか、それしか取り柄がない人である。しかしこれも実社会に照らし合わせればおかしなことを言ってることはすぐに分かる。東大理3に入った人間は無条件で偉いのか?オリンピックアスリートは偉いのか?どちらも、理3である、オリンピックアスリートである以上のことは言えない。それが偉いかどうかは別次元の問題である。しかし理3であれば、受験業界において影響力を持つ存在になれる可能性があるし、オリンピックアスリートについても同様である。ゲームについても、ゲームが強ければ、そのコミュニティで尊敬を集めて影響力を持てるようになる可能性は高いし、その影響力を使ってお金儲けを出来る可能性も生まれる。
第三に、これは本当に嘆かわしいことなのであるが、今のゲーム業界のレジェンド的な人の中には、この「ゲームが強いと偉い」に対して同感してしまう人がいるようなのだ。誰とは言わないがCSGOの人である。この点は、引用したブログに大賛成で、レジェンドと言われるほどに影響力を持つようになったからこそ、正しい意見を持ち、明らかに間違ってることに対しては論理的にNOといえる人間でなければいけないと思うし、そうでないから、未だに偉い偉くない論争が続いてしまっているのだと思う。
おれがPCゲームを始めたのは2、3年前のことであるが、今になって思うことは、ゲームコミュニティというのは何も積み重ねてこなかった本当の荒野なのだということだ。CSGOの歴史が20年らしい。20年というのは人間や科学の歴史からするととても短いが、20年前というとちょうどグーグルがまだ出始めた頃であり、コンピュータ業界ではそれから膨大な知が蓄積されてきた。それに比べて、ゲームコミュニティはほとんど蓄積がされてこなかったのではないかという印象を受ける。これは、ゲームタイトルが流行っては消えを繰り返すという性質の問題もあるが、基礎的な要素であるエイム一つとっても、古いものはロクな文章が残っていない。アジア・’世界大会への切符を考えても日本では枚数が限られていたりと、日本という国のリソースは有限である。だからより、その限られたリソースを投資される人間はうまさの上に知性も兼ね備えていて、言葉や文章を残していける人間である必要があるのではないかと思う。